新約聖書『小黙示録』の預言 最終

●偽メシアや偽預言者に惑わされてはならない。

 まさに滅びの時代に生きる我々は、それにどう対処できるのだろうか? 聖書は『救い』は必ず用意されており、それは神によってのみもたらせると告げられている。 むしろ一見頼れそうな受動的な『救い』には、乗るべきではないと警告しているのです。
 神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人として救われない。 しかし神は選ばれた人達のためにその期間を縮めてくださるであろう。 その時『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』という者がいても信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて大きな印や不思議な業(わざ)を行い、できれば選ばれた人達をも惑わそうとするからです。 だから人が『見よ、メシアは荒野にいる』と言っても、行ってはならない。 また『見よ、奥の部屋にいると言っても信じてはならない(マタイ第24~26)。

 では、人類への『救い』は、どのように訪れるのでしょう。

 
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●天使達が選ばれた人を四方から呼び集める。

 その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。 そのとき人の子の徴(きざし)が天に現れる。 そして地上の全ての民族は悲しみ大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 人の子は大きなラッパの音を合図にその天使達をつかわす。 天使達は天の果てから果てまで彼によって選ばれた人達を四方から呼び集める(マタイ第24章29~31)。

 『太陽は暗くなり』から『天体は揺り動かされ』までの記述を見る限り、ポールシフトの描写に見える。 しかもその最中に訪れる『救い』も謎だらけだ。 なぜ『人の子の徴=キリスト』が天使に現れると全ての民族が悲しまねばならないのか、天使と何を指すのか。 マタイの記述から推し量ると少なくともこの時期、人は保守的であっては身を譲れない。 役に立つと思われることは何でもし、新たに物を生み出す努力をした者にのみ未来があるのだ。 こうしてみると地上の全ての民族とは1日時代の習わしにしがみついて悪い事をしなければ善であると考える。 人々を指すのかもしれない。 このことはただ一つの事実を示している。 つまり『救い』はメシアからではなく自分の心からのみやってくると言うことだ。


 資料を調べ、文章にすることも月日の流れと共に難しくなってきております。
 新約聖書についての預言も最後まで書き、キリが良いので、記事の投稿は終わりにしたいと思います。
 いままでありがとうございました。


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