仏教とは違う宗教にはどのような預言があるのか? ④

 聖書は破滅を免れるための警告、そして愛の書であると言えないでしょうか?

 もう一つ、預言に接するときの注意点と言うものがあります。

 それは『予知』と『預言』の違いです。

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 預言者とは?

 一般的な予言(物事の実現に先立ち言明すること)を行う者ではなく、超越的な神の命令を受け、神の意思を人々に告げる道具として自己を認識し、人々に神の命令への絶対服従を迫る存在です。 いわば王と国民に対して正しい道を示す、水先案内人が預言者なのですが、預言者と言う
存在は、往々にして忌避(きひ)され、嫌われ、迫害され、時に虐殺(ぎゃくさつ)される場合もありました。 なぜなら、預言者は相手が誰であっても道を外れたり、外れそうになっている人物に対して容赦なく悔い改めを要求したからです。

 聖書によれば、預言者の言葉は実現することとなっています。 ですが、実現したとしてもその預言者はソレを誇ったり、喜んだりすることはありません。 それどころか現実したことを人一倍嘆き悲しむと同時に人々に代わり神に懺悔(ざんげ)し、神の裁きの中に神の哀れみを乞う事を人々に教え諭しているのです。 それにより人々が悔い改めれば、神は彼等の罪を許し、以前にも増して大きな祝福を与えてくれるという約束を行うのです。

 このことは何を物語っているのでしょうか?

 それは、預言とは警告であって予知ではないという事実ではないでしょうか? 予知であれば当たらなければ意味がありません。 ですが、警告は危険を回避するのが目的なのですから、当たっては意味がありません。

 そして、もう一つのポイントは『悔い改め』です。

 ですが、なぜ現実に起こる災害に対して『悔い改め』が有効となるのでしょうか? ここに聖書の秘密があると考えられます。

 それは『心』の力がやがて現実化し、世界を動かすという神秘が存在しているためです。 そのため、まだ『心』の問題であるうちに『悔い改め』」をすれば、災害は回避できるはずと考えられているのです。 そのように考えているからこそ、預言者達は、舌鋒は鋭く迫害も恐れなかったのです。 今、数多くの終末預言を前に私達が取るべき態度もまたそれに倣うべきでしょう。 聖書が聖なる書物である由縁は人類に脅しをかける訳ではなく人類の心に進化を促すために書かれた『警告』と『愛』の書であるという事実にあるのですから。

終わり

 ここまではユダヤ教、旧約聖書の預言をもとに書いてきました。 次からは新約聖書の預言について書いていきたいと思います。

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