●聖書預言の背景には、実は明確な思想があります。 それが、ユダヤ教独特の時間概念なのです。 ユダヤ教にとって歴史はソレを支配する唯一是神(ゆいいっしん)の啓示の場であり、神とイスラエルの民(ユダヤ教徒)との契約の場です。 彼等にとって歴史は循環的ではなく、直線的に進行しているのです。 ユダヤ教の伝統の上に立脚したキリスト教や、イスラム教も基本的には同じ立場にあり、その時間的概念は同じです。 直線的な時間の概念は、世界に始まりがあり、中間を経て、終わり(終末)へと一直線に突き進む流れとして捉えています。 それは宿命的で不可逆的な流れです。
一方循環的な時間の概念は、世界を螺旋(らせん)のような円環構造とみなし、無限に反復する周期として考えています。 人類が自らを自然と一部と考えることで、世界は基本的に循環的な流れの中にあると捉えたのです。 ところが人類が自然と決別し、自然から切り離されれば、人間は自然の循環によって救われることはなくなってしまいます。 ソレは、冬の次に春が来るとは限らないと言う考えかたと言えるでしょう。 そこに登場したのがメシア(救世主)の出現による救済思想だったのです。
仏教では仏が人を助ける事は考えていません。 来世のためにでも八正道、戒律を守り、正しく生きる努力をしなさいと語ります。 そうすれば来世は良く生きることが出来ると言っているように私は思うのです。
●ただし観音経では、殺されそうになった人、苦しんでいる人には、救済は行われると語られています。
次回はユダヤ教の終末預言を書きます。
(つづく)

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