現世中心主義が仏教をダメにした②

新興宗教には大きな弱点がありました。
仏教系の新興宗教は在家仏教徒の集団であり、聖職者つまり僧侶が存在しなかったのです。
そのため、信者の家に死者が出ても、葬式を出す事ができません。
信者達は捨ててきたはずの故郷の宗派に従い葬式を上げることになったのです。
そのときだけは既成仏教の力を借りなければいけなかったのです。
それは葬儀を契機に信者たちが元の宗教へ戻ってしまう事を意味していました。

しかし新興宗教の中には葬儀を契機に信徒が離れる事を避けるため、
既存仏教との結びつきを持つことで葬儀を行い、信者離れを防ぐ新興宗教もあったのです。
それにより葬儀のときも自らの信仰を貫いたのです。
その後、その形態は独自に発達し、葬式も行える新興宗教として発展を遂げるものもあったのです。
これは他の新興宗教にはない強みとも言え、新興宗教の中でもひときわ大きく成長しました。

一般の新興宗教の場合に見られるように死を契機に既成仏教に戻っていくにしても、
自分達の信仰する宗門の形式によって葬られるにしても、
それは結局のところ葬式仏教を温存することにつながったのです。
そこには、しきたりや習俗としての強制力を持つ葬式仏教への根本的な批判は存在しませんでした。

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仏教の革新運動としての新興宗教も死の問題については弱点を露呈させてしまったのです。
要するに日本化した仏教は(現世中心主義)の宗教なのです。
それはインドに生まれた仏教が持っていた現世否定の側面を完璧に失ってしまっています。
現世中心主義の立場をとった仏教は現実の社会の在り方や現世における限りない幸福を実現しようとする個人の欲望を抑制・批判する事ができません。
反対に現実の社会無条件に肯定し、かえって個人の欲望を仰ぎたてることに貢献してきたのです。
私達が、現在目の前にしているのは現世中心主義の傾き過ぎた仏教と言えます。
それは私達が心の拠り所として求めようとする幻想的な仏教とは大きく異なっていたのです。
仏教と言う名前はついていても、本来の仏教とは似て非なる仏教なのです。
これまで求める仏教と現実の仏教の落差を感じながらも、その実態を明らかにされていませんでした。
そこには諦めの気持ちがあったのかもしれません。
しかし、私達は葬儀をはじめとするさまざまな機会に仏教と関わりを持つ必要があります。
その時には割り切れない気持ちを抱えながらも現状を容認し、私達が求めてもいない仏教を受け入れざるを得ないと言えるのです。
特に身近な人間を葬らなければならないとき、大きな戸惑いを覚えそれまで仏教について深く考えてこなかったことを後悔することになるのです。
私達は現実を見つめなおさなければいけません。
仏教が堕落しているのならば、その実情を正しくとらえ、堕落の原因を究明していく必要があるのです。
その作業はおそらく私達自身の反省も必要となります。
仏教の日本化を推し進め現世中心主義を戦後の日本人の多くは強く信じてきたからです。
日本において仏教の堕落に導いたのは、他の誰でもなく日本人自身なのです。

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この記事へのコメント

  • ポンタ

    史上最高傑作『ゲンロン0』、オススメです。
    仏教と近い気がします。感動的でした。
    2017年05月05日 05:44