日本仏教の流れ①

釈迦が教えを説いていた時代には、宗派と言うものはありませんでした。
釈迦の教えそのものが全てだったからです。
しかし釈迦入滅後、時代が下るにしたがって戒律や教義に対する解釈の違いが増えてきます。
そのため仏教は20近くのグループに分かれていったのです。
これが部派仏教と言われるものです。
これらはやがて小乗仏教・大乗仏教の二つの大きな流れにまとまっていきます。
中国に伝えられた仏教はインドの仏典を中国語に翻訳する時代を経て、4~6世紀ごろに経典研究の時代に入りました。
中国の仏教者の中から、釈迦の教えを最も反映した経典は、いったいどれなのか?
小乗・大乗合わせて三千近いと言われています。
翻訳経典の中から拠り所とする経典を必死で探し、仏の教えを説こうとするグループが現れます。
こうした中から法華経、華厳経など拠って立つ経典の違いによって教徒たちのグループ分けが進んでいきます。
これが宗派の始まりになっていったのです。

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中国の宗派がそのまま日本へ
この中国の宗派がそのまま日本に伝えられます。
6世紀大陸文化輸入の一環として、朝鮮半島の百済を経由してもたらされます。
そして仏教は渡来人達の間で信仰されながら、次第に日本の間にも浸透していきました。
日本での仏教の基本は、大乗仏教に重点を置いていたところでした。

三国伝来
仏教はインドで生まれ、中国を経由して日本にやってきたと言う意味で、三国伝来と言う言葉があります。
欽明(きんめい)天皇 戌午(ぼご)7年(西暦538年)に百済の聖明王(せいめいおう)が外交通商の一環として、仏像・仏具・経典を献上したのが、その初めです。
(日本書記では、仏教公伝を552年としています。)
このころの日本では、蘇我氏と物部氏の二氏が激しく権力抗争を繰り広げていました。
日本の神々に固執する物部氏に対して、蘇我氏は仏教を支持していました。
抗争は6世紀末蘇我氏の勝利に終わり、仏教が公認されることになったのでした。

聖徳太子は仏教を積極的に招来

我が国に仏教を積極的に招来し定着の基礎を築いたのは聖徳太子でした。
対しは渡来僧から仏教を学び深い理解と信仰を示し、大陸文化を積極的に取り入れました。
政治的な抗争により内乱の続く日本を、仏教思想を基本とした政治を行い統治しようとしたのです。
そのため隋(ずい)に留学生や留学僧を派遣し進んで文物や人材を招来したのです。
推古天皇の摂政になった太子が607年に小野妹子を最初の遣隋使として派遣したことは有名です。
自らも勝鬘経(しょうまんきょう)、法華経、維摩経(ゆいまきょう)など3つの経典の意味を解釈した三経義疏(さんぎょうぎしょ)を著し、四天王寺、飛鳥寺、中宮寺、法隆寺等を建立しています。
また太子が行った政治革命の中にある十七条の憲法にも仏教の思想を大きく反映されています。
特に2条に関しては
「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」
と、このように仏教を信奉するように定められています。

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